中高年に差し掛かるタイミング、あるいは定年退職前後に新しい生活をイメージするころになると、よく目にするフレーズ「改めて今、自分のキャリアの棚卸し作業をしましょう!」
ある程度の時間はかかるかものの、なにせ自分のことだからそんなに難しい作業だとは思えない。
しかし、あなた自身、先入観なしにクリア自分のな自分の棚卸しが出来ますか?
自分のスキルは、自分でも意外とわかっていない
棚卸し作業では、今までに経験してきた仕事内容やスキル、成果や実績などを時系列に掘り下げ、可視化します。
これよって、自身の強みや特長などアピールポイントが明確になるとともに、大切にしたい価値観ややりがいが見えてくるから、ぼんやりとしていた自分のスキルが言語化、鮮やかに視覚化できますよ!ということです。
共感に欠ける「自分のスキルの棚卸し」
僕自身も在職中に「セカンドキャリア」だったか「第2の人生設計」だったか、どっちか忘れましたが、講習を受けた際に棚卸しのススメを提言されました。
早期退職を選んだ際には、転職支援会社からも同じアドバイスを頂きました。
あるいはこの時期、嫌でも目に飛び込んでくる「定年後の○○」系の書籍や雑誌でも繰り返し書かれていて、どうお棚卸は、未来をクリアに見据えるためのシンプルで強力なツール、そして近道のようにも受け取れます
確かに、退職間際は変な高揚感とか、「区切りをつける」意識が高くなっている。
その勢いもあって、疑うことなく自身の棚卸しに取り組みました。
結果を言うと、僕の場合は棚卸しは役には立っていません。
どうやらこれには原因があって、「自分が自分の棚卸し」に、そもそも無理があるのではないかと思います。(人によると思います)
当たり前ですが、自分の棚卸しとは自分の過去を振り返ります。しかし、自分自身の振り返りとなってくると、どうしても「出来事をやけに美化する」や「妙に厳しい自己批判や後悔」といった感情が入り混じります。
とくに時代の価値観の変化、つまりAIが進化した現代では棚卸した過去の実績が重要ではないケースも出てくると思います
結局、僕載っての棚卸しは、感情や気持ちの起伏遍歴にもとづく出来事の整理となってしまったのです。
自己認識を見直すための新たなアプローチ。中高年編
いやいや、そんなグダグダと理屈言っていないで、普通に棚卸しすればいいだけでしょ!
ITリテラシーが決して高くない僕のケースですが、7~8年前にグローバルで情報共有できる環境が必要になって、クラウド上でインフラを構築しました。結構苦労しましたが、今はサクッと既存のツールで出来ますよね。
これを棚卸ししたところで、自分の強みとして社会にアピールできます?
では、中高年や定年退職をした人が再スタートを切るためには、まずやることって?
となると、どうも僕にとっては自己認識が歪んでしまう「棚卸し」以外の方法で、社会のニーズを外さないで自分の立ち位置は確認するためにはどうすればよいのでしょうか。
ジャンルからのアプローチ
私の感覚として、自分の得手不得手を客観的に理解して、価値観や興味を再認識するためには、まず自分の「ジャンル」から入るのは良いと思います。
ジャンルとは、○○タイプとなど自身の分類ではなくて、例えば「環境」や「グローバル」などの「分野別分類やトピック別分類です。
ジャンル自体は何でも良いのですが、その特性と自分の好き嫌いとの関係性を俯瞰できることが大切でで、僕の場合、ジャンルを社会課題としました。
そこの縦軸「社会へのインパクト」、横軸「専門技術の高低」でマトリクス化して、ジャンルを自分の興味ある無し、好き嫌いで埋めていきました。
僕が選んだジャンルは「グローバル教育」です。
そこから「起業家育成」に興味があったので、そのジャンルで自分が出来そうなことを考える。
結果として、学生が学ぶためにをお手伝いに繋がっていきました。
- ジャンルの選び方は好き嫌い、興味があるなしで大丈夫
- 専門技術の要求度とはジャンルとしての高低。決して自分の専門技術の有る無しではないので気にしない
あなたが出来る事できない事をカッコよく言うと「スキル」「専門分野」になる
ある一定以上の年齢になると、自分の好き嫌い、出来ること出来ないことは解ってきているのに、「スキル」とか「専門分野」という言葉に変換された瞬間、妙にカッコつけた言い回しを考えてしまう。
僕の得意なことは「おせっかい」(迷惑だと感じているひとはごめんなさい)。あまり苦労を感じなくても出来ることは「パワポ資料作成」。
これをスキルや専門分野として言葉にすれば、「コンサルティング」「問題解決支援」「アドバイザリー」とか、「プレゼンテーションデザイン」「ビジュアルコミュニケーション」
このフレーズを名刺の肩書に書くと、一気に「出来る人」っぽくなる。
ちなみにこれは錯覚資産と呼ばれている。
これを大いに活用できた好例が、大学の生徒が、実社会の課題を解決していく授業「Project-Based Learning(PBL)」の参加でした。。
そもそもPBLとは、教育現場で行われる問題解決型の学習手法です。教室での座学だけではなく、具体的な課題や活動を通じて実践的なスキルや知識を身につける方法です。
僕は教育関係者でも教育現場で働いているわけでもありませんからPBLのカリキュラムに「自分の得意」を活かすことは考えていません
出来ることは、あくまでPBLを実施する大学の教授と学生のサポートに自分の得意を活かすこと。
大学教授に楽をしてもらうためのサポート
学生に喜んでもらう講義を企画でサポート
これがが僕の役目です。
サポートという名の、自分の経験を活かしたおせっかいです。
尖った専門性なんて必要ない
大学教授に楽をしてもらうためのサポートや、学生に喜んでもらう企画をつくる。これだけしかできません。
でも、この「だけ」に価値があったのです。
「だけ」と自分が思っていた自分の得意なこと、つまり社会での経験は、実は教育現場が持ち合わせていない経験でした。
座学と実践ではアプローチが違ってくるので、自分の得意が活きました。
自分には「これだけ」しかできないの
- 「これ」が専門性や専門分野
- 「だけ」がスキル
自分自身、特別に尖った専門性なんてないと嘆いて思っていましたが、他人から見たら「これだけ」が尖っていた専門性であったようです。